2009年11月21日に行われたbtfトークは、華やかなファッションの世界で活躍をしているふたり、ヴィジュアル・コネクション代表の石光史明氏とファッション・ジャーナリストの山室一幸氏をお招きしました。スティーヴン・ガンが生み出した『VISIONAIRE』に日本人として編集に関わった石光氏と、20年以上にわたり、『ファッション通信』の番組プロデューサーをつづけ、さらにはWWDジャパンの編集長、WWDビューティの編集委員も務める山室氏のトークでは、ファションの世界の裏側をたっぷりと感じることができます。
山室:
彼と元々出会ったのは、22年も昔の話しなんですよ。僕がまだ28歳のときで、彼は17歳でした。彼は、高校を辞めて、ただ単にファッションが大好きで、シャネルのイネスというモデルに憧れていて、ベルサーチが好きで、単身ミラノに渡って暮らしているという身だったんですね。それで、ファッションショーの立ち見のチケットをあげて、一緒に見ていたら、彼は見終わった後に、涙を流しているんです。最初にそれを見て、僕はなかなかいいなぁと思ったんです。それで、早速、日本のスタッフに相談して、ミラノにこういう男の子がいるから使ってみてはどうか?って話をしたんです。そしたら、番組スタッフは、そんな学生の頃から、ベルサーチしか着ないで、高校中退してミラノに行けてしまうようなお坊ちゃんには、番組の仕事なんか勤まるわけないと反対されたんです。でも、試しにってことで、ファッションショーの場所取りの仕事をさせてみようと思ったんですね。それで、彼に「スペースキーパー」という肩書きの名刺をあげて、手伝ってもらうことにした。実は、ファッションショーの場所取りって、もの凄い大変な仕事なんですよ。でも、彼はとても頑張ってくれて、ガムテープでマーキングして、雨の日でもベルサーチの服を汚しながらも頑張ってくれて、段々と、スタッフの信頼を得るようになって、有名カメラマンたちにも愛されるようになっていったんですね。それで、もちろん『ファッション通信』にも欠かせないスタッフになっていったんです。そういうことはなかなかできることじゃないと思うですよね。しかも、それを無償でやるというのが凄いんですよ。それで、そのときに言ったのが、”俺は絶対、自分で会社起こして、ファッション界で偉くなるから受け取れないんだ”って。
石光:でも、それは実は父親との約束があったからなんですよ。”働いてもいいけど、お金は受け取るな”、という。高校中退して、海外に行って、人に使われるようなシステムの中で仕事をしてたら、それが癖になってしまうからですよ。だから受け取らなかったんです。でも、あそこで6年間300本のファッションショーをやらせてもらって、いろいろ勉強にはなりました。
山室:でも、結局は、ニューヨークに行くことになるんだよね。
石光:長くやらせてもらって、結局は、もうファッションショー自体がイヤになってしまったというのはあるんです。ファッションショーといっても、正直、毎回毎回素晴らしいファッションショーというわけでもないし、僕自身は、よくよく考えてみるとファッションが好きというのではなくて、あるブランドが好きということなんですよ。だから、もうミラノじゃないところ、ニューヨークに行きたい、そう思ったんです。
山室:
それで、たまたま、『ファッション通信』のニューヨーク支社のスタッフが、『VISIONAIRE』の創設者であるスティーブン・ガンと仲良くて、彼に会ったときに(石光)史明のことを話したんだよね。それで、もし良かったらインターンに使ってもらえないか? という話しまでしてしまった。そしたら、スティーブンは、”いいよ”と快諾の返事をくれたんだよね。それで、”史明、『VISIONAIRE』に行け!”っていったんだったよね。『VISIONAIRE』が創刊したのは91年で、当初はあまり名前も知られていなかったんだけど、もうその頃から、僕らふたりは気になっていて、自然に手にとって買ってしまっていたようなヴィジュアル・マガジンだったんだ。
石光:僕が、実際に参加することになったのは、『VISIONAIRE』がはじまってから、2、3年目のとき、たしか9号目だったね。『VISIONAIRE』の基本は、毎号、新人、大御所問わずにアーティストに無償で作品を提供してもらって、形態もテーマもデザインも違ったものを少部数でつくって、広告に縛られずに販売していく、というものなんです。でも、外国人というのは、やはり不器用なところ、効率が悪いところがあって、僕はその辺りは、トヨタ式じゃないけど、ある程度、器用にできたので、重宝されましたね。
山室:でも、『VISIONAIRE』で驚くのは、お金もないのに、有名なファッションデザイナーやファッションカメラマンに作品を頼むっていう、その編集姿勢が凄いよね。それは、やはり、スティブーンの考えなの?
石光:そこは、スティーブンは一切ぶれないんですよ。彼は”僕らが信念を持ってつくっているのに、この媒体に協力しないわけがない”というのが基本にあるんですね。
石光:基本的にスティーブンは幼稚園の園長先生みたいな雰囲気の人で、とにかくみんなと同じものしか食べないんだよね。何かに果敢に挑んでいくと同時に、次の才能を見つけてくる。日本だったら、摘まれてしまう才能を、彼の場合は拾ってあげるんだよね。そういう新しい才能を育てて共存していくやり方は圧倒的にうまいですよね。それで、基本的には『VISIONAIRE』というのは、スティーブンとセシリアが編集の中心にいて、それをまわりの人が支えるという構図。それがベースなんですね。
山室:ところで、『VISIONAIRE』は途中でソニーと一緒にコラボしたり、ルイ・ヴィトンやエルメス、コムデギャルソンとコラボしたりして、一部からは商業主義に走ったという批判も受けたりしたよね。その辺りは、史明はどう考えているの?
石光:元々の話をすれば、僕らは、もともとメジャー志向があったし、いつまでも貧乏なチームでいたいとは思っていなかったし、それじゃあ、生活だってできないし。だから、その辺りのスティーブンのバランス感覚というのは、すばらしいと思いますよ。良いアーティストは、良い経営者でもありえるということが、僕は、彼を見ていて学びましたよね。彼のビジョンの中には、”こうなるべきだ”っていう強い想いがあったんですよ。
山室:今、日本では、雑誌が売れなくて、売れるのは付録がついたものだけ、と言われているんだけど、売るために付録をつけるということと、ビジョネアがコラボするブランドの付録のあり方というのは”似て非なるもの”だと思うんだよね。本当に、『VISIONAIRE』は、雑誌のオートクチュールなんだよね。でも、史明は、もともとは、”デザイナーにもなりたい!””ファッションカメラマンになりたい!!” みたいな気持ちはなかったの?
石光:それは元々はあったんだけど、ありがたいことにやはり一流のレベルのクリエイターたちの仕事を目の当たりにすると、もうそれはレベルが違うということをまざまざと見せつけられるわけだから、そこは自然と目指さなくなるんだよ。スティーブンに関しても、彼はカメラマンとしても、アートディレクターとしても、俯瞰して見る能力が半端なく高いから、それを見ると、”あ、これは、自分には無理だ”っていうことがわかるんだ。スティーブは、0から1をつくれる人で、僕は、1を100にする人なんだ。
石光:うん、でも、クリエイターとして、アーティストとして考えたら、レベルが本当に違うから。それと、彼は凄く信念がある。20年間、すべて素晴らしいヴィジュアルマガジンを続けてくるって、誰にでもできることではないからね。ここにいるお客さんひとりひとりだって、1冊なら素晴らしい本をつくれると思うんだ。でも、それが20年というのは、凄い感服するよ。それは、山室さんが20年間同じ『ファッション通信』を続けていることにもつながるんだけどね。僕は、どうしても飽きっぽいから、すごいなぁって思うんだ。
東京生まれ。17歳の時に単身ミラノに渡り、TV番組「ファッション通信」プロデューサー(当時)、現WWDジャパン編集長の山室氏に出会うことで、年間300本におよぶ主にミラノ・パリのプレタやクチュールのファッション・ショー取材に携わる。その後、23歳でNYに移住し、スティーヴン・ガン率いるVISIONAIREに出会い、同誌初のインターンに。93年より個人で同誌の輸入をはじめ、94年に現在も代表を務める株式会社ヴィジュアル・コネクションを設立。NYで編集活動を行いながら、同誌の日本総代理店を務める。98年からはファッションフォトグラファー、マリオ・テスティーノをはじめ、著名アーティストが所属するNY・ART PARTNER社と提携。09年6月には同誌のオフィシャル・オンラインストア、THESTORE.JP<ザ・ストアドットジェイピー>をオープンし、新たな顧客層の開拓を虎視眈々と狙っている。 株式会社ヴィジュアル・コネクション代表取締役社長VISIONAIREアジア地区コミュニケーション ■山室一幸(やまむろ かずゆき) ファッション・ジャーナリスト ファッション週刊紙 「WWDジャパン」編集長ビューティ週刊紙「WWDビューティ」編集委員ファッションTV番組「ファッション通信」エグゼクティヴプロデューサー 1959年10月18日 東京生まれ 天秤座 O型 |