宮原夢画

2009年2月21日のゲストは、ファッション、音楽、CFなど、さまざまな分野を横断的に活躍する宮原夢画氏です。写真家にとっては、多くのことを考えさせられるデジタルカメラ隆盛の現代。プロの表現者にとっては厳しいとも言えるこの時代に、今、最も忙しい写真家はどんな想いでシャッターを押しているのでしょう?

 


写真家となる土台にあるもの

父親がCFのアートディレクターであったことと関係があるかもしれません。僕が子供の頃は、いつもまわりにはアートやデザインというものが、隣り合わせにありました。父は、ときどき応接間で鉛筆を使って絵コンテを描いたりしていたのですが、その絵が3ヶ月後くらいには、テレビに流されているという具合です。だから小さかった僕は、絵というものを描けば、それがCMになってテレビで流されるものだとばかり思い込んでいました(笑)。そんな影響もあって、最初は絵に興味があったんです。将来は、画家になって絵で食べていきたい、そう思っていた。画家で言えば、マグリッドの絵は特に好きでした。潜在意識にあるような、こういう不思議な世界があってもおかしくないんじゃないか、と思わせるようなところが好きでしたね。今、僕が撮っている写真というのは非常に構築的なものだと思います。一度、絵に描いて、スケッチして、写真にしていく。そういう表現の土台のひとつには、マグリッドの絵もあるかもしれません。


写真との出会い

僕が最初に写真に出会ったのは、家に転がっていた父の写真集でした。本棚には、リチャード・アベドン、アービング・ペン、ヘルムート・ニュートンなどの写真集がズラリと並んでいました。特に、ヘルムート・ニュートンのサディスティックな写真には強い衝撃を受けました。小学生だった僕は、レザーを着た女性がリムジンに乗って、横に座っている男の人が股間に手を当てているという写真などが、相当にショッキングだったことを覚えています。思えば、あれが最初のエロ本だったのかもしれませんね(笑)。父親の部屋から持ってきては、ベッドの下に隠したりしていましたからね(笑)。そういう写真集との出会いというものが、幼い頃にありました。


ビリヤードのプロを目指して

そんなバックグラウンドはありながらも、写真家の道をまっすぐに目指していたわけではありません。高校生の頃に、あることに興味を持っていて、それで生きていけないか、と真剣に考えていた。それが何かと言えば、ビリヤードです。僕は、ビリヤードのプロになりたくて高校まで辞めてしまった。ビリヤードというのは、関東よりも関西の方がレベルが高い。だから、当時の僕はずっと関西に行ってビリヤードの勉強をしたいと思っていたんです。それで、何とか関西に行ける方法はないかを思案した結果、写真学校が思い浮かんだわけです。僕は、すぐさま、父に「大阪に写真の勉強をしに行きたい」と相談しました。すると、父の近い世界だということもあって、「じゃあ、やってみろ」という返事が返ってきた。それで大阪暮らしがはじまったわけですが、それはビリヤード漬けの生活です。ビリヤード場でバイトをしてプロの人からレッスンを受けて、学校には行かない(笑)。1年間で2回しかいかないという状況でしたから、親にバレない方がおかしい。学校から親に通知が行き、僕は東京に連れ返され、同校の東京校に編入させられることになるわけです。そこからは、ビリヤードのことは忘れて、専門学校を卒業するということを目標に生きていかなければならなくなってしまったのです。


写真の力

写真と真剣に向き合うようになったのは、そこからです。日々、学校で勉強したり、写真を撮ったりしているうちに、段々と写真を撮るということが面白くなっていった。写真に対しての知識も、そのときに深めることができました。その頃、出会った写真家として好きだったのは、ロバート・キャパです。彼は、マグナムという写真家グループの一員で、戦場で地雷を踏んで亡くなってしまった人ですが、ドキュメンタリーとしての写真表現が素晴らしい。いろいろな写真があるのですけど、そのうちの1枚にスペインの内乱へ送り出した兵士たちが全員戦死したということを町内会で発表している写真があるんです。そこには、きっと息子を送り出した母親などもいたのでしょう。その一報を聞いた女性たちの泣き崩れる、凄まじい表情が映されていました。僕は、彼女たちの表情を目にしたときに、涙をポロポロと流してしまったんです。写真を見て泣くなどということは、それまでには一度もなかったことだから、自分自身にとってもそれは驚きでした。と、同時に、写真が持つ伝達力というものに気づかされた瞬間でもあったと思います。それから、ロバート・メイプルソープの写真にも多いに影響を受けました。彼の美的センス、彼はゲイなんですけど、そういうものの市民権を得るために写真表現を用いて、時代の空気を変えていった人だと僕は認識しています。ドキュメンタリーではなく構築的な写真なんだけど、社会を動かす力がある。そこにも、僕は写真の力を見出していたのだと思います。


商業カメラマン

僕は、本当は、作家として、マグリッドやメイプルソープのように、夢の中で見たことがあるようなシュールな世界観を自分なりにつくりだして、写真作家として生きていけないかと思っていました。ところが、現実はそんなに甘くありません。そこで、カメラを商売道具として考えて生きていくことにするなら、やはり商業カメラマンということを真剣にやっていかないといけないわけです。それで、ファッション写真や洋雑誌の『id』『FACE Magazine』などの写真の真似をしては、雑誌社に持ち込むという活動を行うようになったわけです。でも、編集者にそれを見てもらうと、「オリジナリティがない」という、ごもっともな辛口批評を行く先々で受けるわけです。それで、「仕事が欲しいから写真を撮る」というやり方を辞めてみたんです。それで自由な写真、自分が撮りたいと思う写真を撮るようになった。それであるとき、『流行通信』という雑誌の編集者に、自分の写真を見てもらいに行った。そうしたら、どういうわけか、アートディレクターの人を紹介してくれたんです。今は休刊になってしまいましたが、『流行通信』というのは、ファッション系のカメラマンにはとても人気の高い雑誌で、みんなここで写真を撮りたいと思っていた。だから、同誌のアートディレクターが僕の作品を見てくれる日は、僕以外にも30人ほどのカメラマンが売り込みにきていたんです。前に並ぶカメラマンたちが、辛口批判を受ける中で、僕は内心ドキドキしていたのですが、どういうわけか、彼が僕の作品を「君、面白い写真撮るね」と言ってくれたんですね。それでトントン拍子で連載を持たせてもらえるようになり、連載を持つと今度はその連載を見た人から広告写真を撮ってみないか、という話をもらうようになったりするわけです。そこから話がつながっていって、いろいろな方々に支えられながら、現在、商業カメラマンとして仕事が出来ています。


銀塩写真にこだわる理由

僕はデジタルカメラには、すぐに飛びついた方なんです。でも、実際にやってみると、デジタルは撮れば簡単に映っているものが確認できてしまう。「駄目なら撮り直せばいい」、そういう想いが常につきまとう。銀塩のフィルムは、押せるシャッターの数も有限です。だから、一枚一枚にかける想いというのも必然的に変わってきます。緊迫感があるし、集中力も全然違う。僕は今もデジタルで仕事をすることもあるのですが、そういうときは、なるべくシャッターを切らない勇気を大切にしています。僕が銀塩写真が好きな理由は、もうひとつあります。フィルムというのは、銀と塩の調合で感光材に当たると黒くなって、黒いポツポツの粒子が浮かび上がるという仕組みなのですが、そのポツポツ、ドットというものは、実はランダムに配列されていて、きちんとは整備されていないんです。それは、実は人間の網膜細胞のつくりと同じなんです。そこには曖昧さがある。デジタルのように350個の升目がキチンと配列されているということがない。そういう意味からは、デジタルは、グレーから黒にかけての階調のレンジが明らかに低いんです。だから、僕は銀塩写真を好むというわけです。でも、実際には、どちらがいいということは明言できない。仕事によって使い分ける、そこの線引きをしっかりすること、それが大事なんじゃないか、そう思っています。

第一級のクリエイターとして活躍するまでに至る歩みを、飾り立てることなく素直な言葉で語ってくれた宮原さん、どうもありがとうございました。これからのご活躍がますます楽しみになるお話でした。

■宮原夢画

ファッション写真をはじめ、Mr. Children、Chemistry、MISIAといったトップミュージシャンのCDジャケット写真、「TAKEO KIKUCHI」などアパレルブランドの広告写真など、幅広い領域で活躍する気鋭の写真家。昨年は、ミラノ「コルソ・コモ」、東京「エモン・フォトギャラリー」での個展、東京「ギャラリー・ポイント」でのフードクリエーション諏訪綾子との共同作品展、京都「スフェラ・エキシビジョン」での個展と、勢力的にプライベート・ワークを発表。今最も忙しい写真家の一人として世界を舞台に活躍を続ける。

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